茶道裏千家とは

茶の心

 

茶道とは「もてなし」と「しつらい」の美学だといってもよいでしょう。 亭主となった人は、まず露地(庭園)をととのえ、茶室の中に、掛物や水指・茶碗・釜などを用意して、 演出の準備をしなければなりません。これらはすべて日本の風土が育んできた文化的な結晶といえるものばかりです。 だから茶道とは「日本的な美の世界」だということができます。そして亭主と客の間に通う人間的なぬくもりが重要な要素となります。 それを「和敬清寂」の精神といいます。

現在は人が人を大切にする時代ではなくなってしまいました。他人のこころを傷つけ、 他の人を踏み台にして自分だけがのしあがっていけばよいという人々であふれかえっております。こうした時代に人を敬い、 和みの世界と物事に動じない心を生み出していくのが茶道なのです。茶道とは、世界に誇ることのできる精神文化といえるのではないでしょうか。

茶道とは

 

茶道の大成者千利休に対し、ある人が「茶道とは何ですか、教えてください」と尋ねました。 それに対し利休は、「茶は服のよきように」「炭は湯の沸くように」「夏は涼しく、冬は暖かに」「花は野にあるように」「刻限は早めに」「降らずとも雨の用意」「相客に心せよ」、この七則がすべてですと応えました。 すると尋ねた人は怒って「そんなことくらいは、三才の赤子でもわかっております」と言いました。 すると利休は「わかっていてもできないのが人間ではないですか。あなたが本当にできるならば、私が弟子になりましょう」と言ったということです。

茶道の根本とはこのように、自然体のままで季節感を大切にし、「もてなし」と「しつらえ」を基本にした生活文化と言うことができます。

茶道とは、こうした精神を基本にして、客を招き、心をこめたもてなしをする二幕のドラマだと言うことができます。 それを現在では「茶事」と言っています。茶事とは、前席と言われる一幕目に一汁三菜の懐石料理を客に供し、中立という幕間になって一度席を立ちます。 その後再び席に戻って二幕目がはじまります。後席という二幕目では濃茶と薄茶が点てられます。

参考文献:裏千家ホームページ 茶道とは

裏千家の歴史

千利休居士(1522~1591)は、堺の納屋衆田中与兵衛の子として生まれ、幼名を与四郎と称しました。 祖父は、足利将軍家の同朋で千阿弥といい、その名をとり、正親町(おおぎまち)天皇より許されて、千姓を名乗ったのです。 居士は、初め東山流の書院茶をくむ北向道陳(きたむきどうちん)に学びましたが、のち紹鴎の弟子となり抛筌斎宗易と名乗ります。 こうして東山流書院茶の珠光、紹鴎の流れをくみ侘び草庵の茶を融合して、茶の湯を道として大成し、茶道盛行の基をつくりました。

居士はまた、桃山時代の一大傑物として重んじられ、豊臣秀吉から三千石の知行をうけましたが、大徳寺に寄進した山門(金毛閣)に、 自像を安置したということや、秀吉との茶の精神的な違い、その他の理由が重なって、秀吉によって切腹を命ぜられ、70歳の命を果てたのでした。 時に天正19年(1591)の2月28日であります。

利休の居士号は、秀吉が正親町天皇にお茶を献じた時、勅許によって拝受したものであります。

その後、現在まで連綿と続く侘び茶を徹底させ、茶禅一味を唱え、千家茶道の礎をきずいたのは、少庵のあと千家3代を継いだ千宗旦(1578~1658)です。 宗旦は、末子の宗室(1622~1697)が20歳を越える頃、自分の茶を譲ろうと考え、ついに不審菴を三男宗左に任せ、自分は末子の宗室と共に、同邸内に茶室を建てて移り住みました。 それが、裏千家の一畳台目の茶室今日庵、利休四畳半を正しく再現した又隠、八畳敷の広間寒雲亭です。これらの由緒ある茶室は、すべて宗室に譲られ、世に言う表千家の不審菴と、 後に宗旦の二男宗守が建てた分家としての官休庵とあわせた三千家が生まれました。

しかしそれ以降の2百年もの間には、飢饉や洪水という自然災害に加え、奢侈の禁令や金融の引き締めなどもあって、平坦な道のりばかりではありませんでした。 その間に、表千家7代の如心斎天然と裏千家8代の又玄斎一燈(1719~1771)の兄弟は、七事式を制定するなどして千家を中興し、さらに11代の玄々斎精中(1810~1877)は、 幕末から明治の変動の時代にあって、いち早く外国人を迎えるための立礼式の茶礼を創案しました。

その後、13代円能斎鉄中(1872~1924)は、一般の人にも茶道を学ぶことができるように、女学校教育の中に茶道を取り入れ、「小習十六ヶ条」などの本の出版や機関誌 「今日庵月報」などを発行して多くの茶人を養成しました。さらに、14代の無限斎碩叟(1893~1964)は、学校や職場における茶道の発展を図り、外国人にも茶道が理解できるように海外振興を図りました。

15代の鵬雲斎汎叟玄室(1923~)は、長い茶道の歴史と伝統のもとにおいて、 あらゆる宗教の実践、茶禅一味を主眼とした国民皆茶と一碗を通じての世界平和を願い、「一碗からピースフルネスを」を提唱、世界各国に茶道を広めるため活発な活動を続けています。  現在の16代家元坐忘斎宗室(1956~)大徳寺の中村祖順老師の下で得度し、1982年坐忘斎玄黙宗之居士を受け20年余15代鵬雲斎宗室を支えてきました。現在、若い茶道人の育成と茶道文化を明確化するために力を注いでいます。

 

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